きらきら

年賀状が届くのが好きだ。自分にくるものはすごく少ないけれど、おうちに届くものはなぜか早く見たいと思う。郵便屋さんのバイクの音だったり、郵便受けを閉める音を聞くとわくわくする。お正月の楽しみの1つ。

 

年があける瞬間は、友達と神社でカウントダウンをした。行く前は少し面倒だったけどやっぱり言ってよかったと思った。去年も来たよね、なんて話をするのがすごく心地よくて1年の早さを感じた。また来年もこんな風に話すんだ、とまだ1年も先の事を楽しみにも思った。神社で参拝をしておみくじをひくと末吉だった。全体的に実は凶なんじゃないかと思うくらいいいことは書いてなかった。だけど学問が 安心して勉学せよ だったのでそれだけで満足した。

 

明日からしばらくバイトが続くので切り替えてきちんと生活しようと思う。今年の目標もなんとなく決めたので書初めもするよ。あと学校のエッセイコンテストに参加しなければいけなくなったから、そこも少しずつ考えられるといいな。年が明けても日常は日常のはずなのに、なににおいても新年だからと理由をつけたくなる。あけましておめでとうはおめでたくないなんて思ってしまうのにね。

12月30日

今年の目標は現状維持だったみたい。高校もバイトも写真も辞めずに続けること。それから唯一変えたいとあったのは、優しさをもつこと。
目標を立てていたことすら忘れていたし、達成できる目標しか立てていないように思うけれど、達成できている。
優しさっていうのは少しだけ難しいけれど、感謝できるようになったことも、気配りするようになったのも優しさを持てたおかげだと思う。

大きな選択から小さな選択までたくさんの選択をしながら過ごしてきて、まだ正解だったかわからないものだってある。だけどわからないことでも自分で決めることが大切だって誰かが言っていた気がするから、きっとこれでいい。

来年はきっと変化の年になるから、それまでその変化に耐えられるように自分を作らなきゃいけない。18で死ぬなんて言っていても生きるつもりなのだから、生きなければいけないのだから。

時間に比例してないかもしれないけど成長した1年だった。
自分に向き合った。未来を考えた。他人のために動いて、考えて、泣くこともできた。バイトで大変な仕事を任された、やり遂げた。たくさん笑って、笑わせた。幸せの一部になれた。頑張った。頑張れた。去年の私より私のことを好きになれた。他の人はどう思っているかなんて関係ないよ。


来年も優しさをもって生きていけたらいいな。泣くことがあっても消えたくなっても、優しさをもつ。そうすればきっと来年も大丈夫。2018も迎えられる。

嫌いだった目標を考えるよ。

こんな時間に考えるつまらないこと。

とんでもない偽善者なのかもしれない。
みんなそうだよ、という感じだけどだからといってそれがいいというわけではないんだと思う。

限度というのもがよくわからなくなる。良い人振るのも、頼るのも、誰かのことを想うのも、もちろんその他たくさんのことも、ある程度というそれぞれの限度というものがあるんだろう。だけどそんなところが最近の私はよくわからない。
極端に良くしたり悪くなってみたり後になって限度を超えてしまっていたと気付かされる。そしてひとりで考え混んでしまう。悪循環。
きっと今だけだろうけど、この今だけを仲良くしてくれている人はどれだけ嫌うだろうか。そんな風にまた自分のために他人を思う。客観的に見るとすごく気持ち悪い。とても嫌な部分が溢れ出ている感じ。

また答えも出ないどうでもいいようなことを考えてしまう。つまらない。まとまらない。だけどたぶん今だけ、自分の中だけだから許してね。
薄っぺらい言葉ばかりの私と薄っぺらい考えの自分。ぺらぺら。

満ち足りない

書きたいことをまとめられないうちに、書きたかったことさえも忘れて今日になった。勝手に考えも時間も変わって進んでいく。

今日は霰が降った。寒さと共に冬を実感していたけれど、私が思っているより季節は先を行っているみたい。既に寒すぎるから引きこもりたいし、できることなら冬眠したい。
もうすぐ18歳が終わってしまう。18で死ぬという勝手な予想が本当に当たってしまうかもしれない。その確率はきっと低いけど。それでもなぜか本当にしまう気がして怖くなる。死に恐怖を感じるのが久しぶりで、自分の予想に恐怖を感じるのは初めてで、よくわからなくなる。死んでも後悔はない。いまなら、きっと。


電気はつけずヒーターの前で丸くなる。ヒーターの明かりと月の光。暖かくて優しい光がとても心地良い。
自然と涙が溢れる夜。誰も隣にいない夜。
愛おしいが溢れて淋しいに変わる。
目閉じて自分の手を握ってみるのだけど余計に淋しくなってしまった。本当に握りたいのはもっと大きくて温かい手で、優しく包み込んでくれるようなそんな手。こんな苦しさはきっと今だけで、続けば続くほど当たり前になる。平気じゃない当たり前は嫌だな、やめたいな。

苦しくて、なんにも上手くいかない気がする。全部が悪い方向に進んでいるようなそんな感じ。たぶん私の捉え方がそうなっているだけなのだけど。

卒業文集での先生の言葉をたまたま見つけた。「私は結局、願い、祈ることと励ますことしかできません。強く生きなさい。」なんだかすとん、と音を立てるように心が落ち着いた。好きとか嫌いとか、正解とか不正解とか、私が答えをだそうとしていることの無意味さを実感した。また先生に救われてしまった。

幸せでも楽しくても、苦しくて辛くても、結局生かされるし、死ぬなんてことは私にはできない。まあそれなら少しだけ楽してもいいかもしれない。幸せは求めなくても、苦しければ逃げたらいいし休むのもあり。答えなんて出さなくても生かされる。言うのはすごく簡単だから、いつかそんな風に少しでも楽に簡単に、生かされるんじゃなく生きていけるようになれたらいいな。

風邪

私は入試のために移動してるところ。
なんだか電車が遅れているみたいで不安がさらに不安になってるところ。
まだ家を出て2時間ぐらいしか経ってないのに、早くも母とわんこに会いたくて、おうちに帰りたくて泣きそうなところ。
むしろ涙が溢れそうでまばたきを我慢してるところ。


仕事帰りの人がたくさんで、みんな疲れた顔をしている。働くというのはつくづく嫌だなと思わされる。これが他人だからいいけれど、好きな人がこんな顔をして毎日家に帰ってきたらどうだろう。もうやめなと言ってしまいそう。働かなくてもどうにかなるよ、と。
きっとこの考えは甘くて、まだまだこどもな考えだろう。
単身赴任している父が帰りたそうに赴任先での話をする。私はなにも考えず「嫌なら、無理なら、帰ってきたらいいのに。」と言ってしまう。きっと私はそんなことを言える立場でもないし、むしろ言ってはいけない。家族のために、私のために、頑張っている父を苦しめてしまう。
言葉って難しい。思ったことをそのまま伝えてはいけないし、相手がどう捉えるか、場面や時間によって全然違う意味になってしまう。優しい言葉が苦しめる言葉に変わってしまうのだ。

そんなことを考えていたら泣いていた。マスクをしていて、窓側の席だからいいものの、傍から見たらただの可哀想な人だ。少しだけ泣くとすっきりする。心にかかったもやもやが晴れていく。

私は今日もう少しだけ頑張ろう。
明日は今日よりもう少しだけ頑張ろう。
そうしたら後はまたゆっくり、生かされよう。

少しだけ喉が痛い。風邪かな。風邪になれたらいいな。

仮定

最近は怒られることも否定されることも少なくなって、そのままでいい 変わらなくていい と認めてもらえる。それなのに承認欲求が満たされないのは、私を否定する私さえも嫌になってきていて、自己否定を認めてほしいのかもしれない。つまり私は、変わりたいと願っているのだろう。変わりたいけれど、自分の力では変われない私を否定されることで変われるかもしれないと思っているのかもしれない。

自分のことを書いているはずなのに、憶測ばかりなのは自分自身を理解していないのか、理解していないふりをしてるのか。さあまた自分のことを考えると憶測ばかりになりそうだ。